[オイル交換記録]夜のノイズに走り込め

 今年もうだつの上がらないまま新年度を迎えた.年末頃から二月中旬にかけては酷寒も相俟って,毎年とてもつらい.下品な電飾を見て喜ぶ人々,商業主義に汚染されたクリスマス商戦やバレンタイン商戦に右往左往し消費を行う定型の人々を冷めた目で反駁しながら,心の底では羨ましいと感じている.ことばを信仰せず,何も信仰せず,躓くことなく世情に無抵抗で流されることができたらどんなに楽か,と思う.押し付けがましい「新しい生活習慣」なんてものを受容できる気配は未だに一切無し,社会に中指突き立てて反抗期を続けている.いつまで反抗を続ければ良いのだろう.反抗するにもエネルギーが要る,これは疲れるのだ.反抗の余地もないほどの強権か絶望に,いっそ一思いに息の根を止めてもらえたらと冀う.

 斯くのごとく無聊をかこつ無味無臭の365日をn年(nは年齢)繰り返してきたが,今年は福音があった.初手で千日手を続けるような人生を,周回遅れでようやく歩をひとつ動かせたような,そんな年になった.これは最も印象的な出来事であったものの,本稿で触れることはしないので,なんだか歯抜けのような振り返りになることを過去の私に対して申し添えた上で,下半期を振り返る.*1

 


下半期に読んだ本(一部抜粋)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)
 再読である.初読は 2014 年 3 月,ノイタミナによる伊藤計劃作品群の映像化が決まった直後,書店で以下のプロモーション映像を見かけて,うっかりそのまま表紙買いをしたのが契機であった.ひどく無機質な表紙に惹かれたのだ.

 

 衒学趣味とフィクション作品は相性がやや悪い.知識のインプットをし続けていないと栄養失調に倒れる.現実を風刺する鏡として,寓話としてのみ楽しむことはできるけれど,読んで学識を積み上げることはできないと思っていた*2.昔は散々読み耽けたものだが,18歳頃を境に,てんで読まなくなってしまった.本作も,その文脈通り2014年当時は暇潰しの一作品として消費,劇場版も好きな声優の声聴きたさに数回流し見をした程度であった.それでも,秀逸な書き出しは極めて強く印象に残ってはいたが.

 泥に深く穿たれたトラックの轍に、ちいさな女の子が顔を突っ込んでいるのが見えた。 
 まるでアリスのように、轍のなかに広がる不思議の国へ入っていこうとしているようにも見えたけれど、その後頭部はぱっくりと紅く花ひらいて、頭蓋の中身を空に曝している。

伊藤計劃虐殺器官』より引用)

 8月,ひょんなことから作中に出てくる「サピア・ウォーフの仮説って正しくないの?」と疑問を投げたことから,「せっかくだから SF 作品に出てくる SF を現生世界の知識で解釈してみようぜ」という趣旨の会が発足した.
 そこで生成文法理論など,言語学の一部を聞き齧った上で再読をした.伊藤計劃ストーリーテリングの巧妙さ,少々雑な設定やキャラクタ造形でも読ませる伊藤計劃の錦心繍口な筆力に感銘を受けるに到った.どうにか今年中に『ハーモニー』を再読したい.

 余談だが,これを契機に生成文法理論の書物を読み漁るようになった.

新・自然科学としての言語学―生成文法とは何か (ちくま学芸文庫)

生成文法の新展開―ミニマリスト・プログラム

統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論 (岩波文庫)

〈増補版〉 チョムスキー理論辞典 −−Kenkyusha's Dictionary of Theoretical Linguistics, Enlarged Edition

 今のところこのへんを仕入れた(読んだとは一言も言っていない).『統辞構造論』においてチョムスキーによる"Colorless green ideas sleep furiously."および"Furiously sleep ideas green colorless."の例文を用いた指摘にはいたく感動した,が, やっぱり然程読めていないのが現状である.

 

省察 (ちくま学芸文庫)

 まだ第一省察と第二省察の頭を読んだに過ぎないが,去年一番しっかりテキストと向き合った本だと思う.晦渋な文章の論証手順をしっかり考えて読む作業は楽しい.

デカルト『省察』の研究

デカルト『省察』訳解

 参考文献はこのへん.図書館で借りて読んで多少参考にはしたけれど,ちくま学芸文庫版『省察』の巻末の構成がとっても過保護で,デカルトそのものを研究するわけではなく,テキストについて考えるだけならこれで充分であった.

 

リーガルベイシス民法入門 第3版

 ミクロ経済学を勉強し始めたときに一番読み込んだ本は神取道宏『ミクロ経済学の力』で,これは良くも悪くも読みやすい本だった.読みやすすぎる悪い側面は,さほど理解ができていないのにスラスラと読めてしまうせいでミクロ経済学を分かった気になってしまう点で,後々,実際の理解度を目の当たりにして苦労した.
 そんな神取ミクロの民法版とも言えような読みやすい良書である.本当に読みやすい.コラムが楽しい……と思ったら,著者の道垣内氏は『東京大学「教養学部報」精選集: 「自分の才能が知りたい」ほか教養に関する論考 』の「駒場のトイレに見るセクシズム研究序説」の執筆者だと分かった.
 ちなみに,同様に記述への信頼と読みやすさが高水準で同居する本の刑法版は,『講義刑法学・総論(第2版)』が挙げられそうと思った.憲法は探している最中だが,『立憲主義と日本国憲法 第5版』が今のところつよい.

 

On Liberty Illustrated (English Edition)

 ミル『自由論』,最近まったくといっていいほど眼光紙背に徹して英語を読んでいない弊害として,初見の文章をなんとなく大意を取る程度しかできない,それ自体は価値のあることであるけれど精読ができなくなっていることに気付いたので,原点回帰,きっちり構文をとりながら日本語訳をつくる材料に使った.当然のように途中で挫折している.

 

異常論文 (ハヤカワ文庫JA)

 シュテュンプケ『鼻歩類』やアシモフ『再昇華チオチモリンの吸時性』,石黒達昌『平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに』などを期待して読むと,いくつかの著作に対して「論文…………………??」といった具合の肩透かしを食らう.しかし,今年一番面白かった本が何か尋ねられたら真っ先にこれを挙げる.決して全てを読んだわけではないけれど,いくつかの論文(?)が実に秀逸であった.とくに円城塔決定論的自由意志利用改変攻撃について』と柞刈湯葉『裏アカシック・レコード』,柴田勝家『火星環境下における宗教性原虫の適応と分布』がよかった.『異常論文2』を出すなら「銀河王朝期における超高速相聞歌について」が読みたい.
 以下蛇足.ただどうも,ざっくりとこの界隈のTwitterにおけるキュレーションのホモソーシャルな内輪ノリがどうしても鼻について苦手である.編者と編纂物,著者と著作物は切り離し,決して編纂された各著作に罪はない立場であっても,その内輪ノリを本にまで持ち込まれるといくらかうすら寒い.

 

チ。―地球の運動について―(1) (ビッグコミックス) 

 壮大な人類叡智の大河漫画.山本義隆世界の見方の転換 1 ―― 天文学の復興と天地学の提唱』の漫画化っぽい.そう簡単に感想を書ける類の本ではないので今回は省略するが,6巻から始まる3章の展開が楽しみである.完結したらまとめて感想を書きたい.

 

刑法総論の理論構造

 前掲の『講義刑法学・総論』の理論的補助として買ったつもりだが,うっかり通読したいと思うほど心躍る,痒いところに手が届く本である.
 試験向きではないけれど,結果無価値論を舌鋒鋭く批判することで,結果無価値論の本質めいたことがよく見えてくる.この本とは何年かかけてじっくりと付き合いたい.

 


今年度読みたい本

 前掲の事由で生成文法理論の一端を齧ったので,熱が冷めぬうちにもう何口か齧っていたい.仕込みとして『新訳 ソシュール 一般言語学講義 』を読んでいる最中なので,夏までには読み切りたい.生成文法理論と,後述の非線型数学は,成果物としてイロモノの創作物を出したい.

 3月11日,金子邦彦先生の最終講義「やり残したことなど:カオス、複雑系、普遍生物学、それから」を聞いた.あまりにも難しかった.内容の一厘も理解できた気がしないけれど,ひどく面白かった.もともと『Self-Reference ENGINE』を通して『カオスの紡ぐ夢の中で (〈数理を愉しむ〉シリーズ) (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)』や『東京大学「教養学部報」精選集: 「自分の才能が知りたい」ほか教養に関する論考』に収録されている「カオス出門」に感銘を受けて愛惜していたが,著者の長尺な一人語りをはじめて聞いた.結末だけ話すと,私は『複雑系のカオス的シナリオ (複雑系双書)』を仕入れた.カオスに関する基礎知識やそもそも物理学や生物学の知識が無くて着いていくのがなかなか難しいところもあるけれど,きっちり読み切りたい.

 


以下本文 

 オイル交換した.

 data 2021/2/28

 odometer 46606km

 前回から1700kmも走っておらんので,フィルタ交換なし.次はやりましょうね.

 

 以上

 

*1:上半期は一つ前の記事で振り返っているので

*2:だからといって価値がないとは微塵も思わない,そもそも小説も本来は好きである.念のため.

[オイル交換記録]カナブンの弾丸は労働者を撃ち抜く

 オートバイのオイル交換をするたびに記事を一本上げることにした.
 尚,本来は日付とオドメーターの記録を目的としているため,記述内容は全く関係の無い雑記の集積とする.

 


上半期に読んだ本

Babel I 少女は言葉の旅に出る (電撃の新文芸)

 ライトノベルを最後に読んだのはいつだろう……と考えても結論が出ないほど久しぶりにライトノベルを読んだ.私は,ファンタジー作品全版が苦手である.特に異世界に転生する様式の作品は,異世界と我々の棲まう現世は言語体系が異なる筈なのに何故言葉が通じるのだろう,という真っ当な(つもりの)疑問を拭えず途中で投げ出すことが常態化している.
 その疑問に対して,一つの解を示してくれる作品であった.正直,分量も内容もまったくライトではないが,同じ問題意識を持つ方は是非.*1

異世界語入門 ~転生したけど日本語が通じなかった~
 ちなみに,しっかりと積んでいるけれど上掲のように言語がまったく通じなかったパターンのライトノベルもありますね.

 

日本SFの臨界点[恋愛篇] 死んだ恋人からの手紙 (ハヤカワ文庫JA)

 ここ2,3年なかなか小説を読むのが辛くて,昔は時間を忘れて耽読していた三島由紀夫谷崎潤一郎を読むことさえ厳しく,特に未読の作品は全く読めない惨状であったが,どうやら SF は読んでいられるようだと判った.
 表題はアンソロジー形式で,なかでも大樹連司著『戯画・セカイ系』はゼロ年代をオタクとして過ごした人々は間違いなく楽しい.
 これは,私たちオタクへの手向けの弔辞のような小説でした.作品自体が一種の卒業式.

 

分節幻想 ――動物のボディプランの起源をめぐる科学思想史

 何故読んだのかと訊かれると答えに詰まるが,自分の興味が向いている分野の思想史を省略する発想がそもそも存在しない.
 本書は,過去の科学者たちが脊椎をもつ生物の体節とその相同性*2を如何に理解してきたか,歴史を追う総説的な書物……と思っていた.
 私にとっても棚からぼたもちの嬉しい誤算であったが,特に面白いのは相同を定量化し,(少なくとも上に)評価する巻末の試論であった.馴染みのない方には,反復説*3のようなことを実しやかに語るトンデモ科学を今でもときどき見かけるので,試論の序だけでも読んでもらいたい.以下は同著者の軽量版.
形態学 形づくりにみる動物進化のシナリオ (サイエンス・パレット)

 

ゴジラ幻論 ――日本産怪獣類の一般と個別の博物誌

 上記『分節幻想』と同著者の,ゴジラリスペクト本.怪獣が実在する世界ではきっとゴジラ原論だが,ぼくらの現生では『ゴジラ幻論』なのだな.
 ゴジラ作品中の登場人物の子孫や,登場人物そのものが学会発表などの体裁でゴジラの形態と発生を考察する.通常の怪獣本からも,生物学の教科書からも得られない知見がたくさん載っている.現時点で今年一番面白かった本の筆頭候補.

 

カモノハシの博物誌~ふしぎな哺乳類の進化と発見の物語 (生物ミステリー)

 カモノハシって面白くないですか? 哺乳類に分類されているのに,鳥類みたいな総排泄腔があるし,蹴爪に毒腺を持つし,口吻のような形質もあるし.「祖先的な哺乳類だ」の一言で片付けることもできるけれど,そもそも哺乳類ってなんだろうね.そんなことを考えるきっかけになった本.

 

キャンベル生物学 原書11版
Campbell Biology

 訳あり,入用で基礎生物学を,特に進化学を中心に勉強する必要性が生じた為に読み始めた.最初は電子版で原書12版を読んでいたが,途中で心が折れた.過去の出版状況を見るに,邦訳は奇数版に限られるだろうと踏んで邦訳12版の出版を待たず11版を購入.
 Campbell は(類書では省略されがちな気がする)進化を下地とした記述が多々なされているのが楽しい.

 

進化とゲーム理論―闘争の論理
生き物の進化ゲーム ―進化生態学最前線:生物の不思議を解く― 大改訂版
進化ゲームとその展開 (認知科学の探究)

 いまの興味の中心にあるもの.なかなか理解するのに時間がかかっているけれど,自分が興味を持つ分野ふたつが接点を持ち,学際領域をなしているというのは幸せなものです.何かを書くことができるほど勉強できていないので,次回更新(遅くとも年末)にはまともな記事を上げたい.

 


やったこと 
  • バイクを買った.(2月)
     ツーリングがたのしい.もういい歳なのでほいほいと行くことはできないし,250ccでの遠出は腰が引けるけれど,見知らぬ土地を目指してのんびり走るのはよいものですね.通勤通学でさえちょっとたのしいです,少なくとも満員電車よりは,圧倒的に.
  • Fate/stay night[Heaven's Feel]Ⅲ.spring songの復刻上映を観た.(4月)
     単独で記事を上げるつもりだったけれど,叶わなかったのは筆無精によるもの.オタク人生の嚆矢は間違いなく『明日のナージャ』であったけれど,“オタク”という語彙をもって自分をオタクと定義したのは『涼宮ハルヒの憂鬱』のリアタイ放送,そして,人生で最も長い時間かかわった作品はFate/stay nightであった.苦節15年.
    「もう,(サブカル文化は)ここまででよいかな」と完膚なきまで燃え尽きてしまうほど嬉しい映画化でした.

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    去年できなかったこと

  • Heaven's Feel 地味聖地巡礼をした.(3月)*4
     あまり大きな声で言うものでもないけれど,昔から聖地巡礼は割と好きなんですよね.というわけでいくつか.

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    HFで初出の通学路

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    rainの直前

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    柳洞寺山門および山道


  • 司法試験の勉強をはじめた.(4月)
     特筆すべきことはとくにないけど,酔狂の一言で片付けるにはあまりにも勉強が楽しくて続いている.自分が強く興味を持ちそうな法制史,法哲学,刑法思想にはなるべく触れないように.生存戦略セーフティネットも大変です.

  • 劇場版名探偵コナン『緋色の弾丸』を観た.(5月)
     オタクとして生きることに見切りをつけたとて,もはやオタクは属性ではなく生き様です.そう簡単に体質は変わるものじゃない.
     何が言いたいかというと,これを観る為に*5重要回+αとはいえ1話からほぼ最新回*6まで1ヶ月半で走り切った.我ながらどうかしている.
     しかしその甲斐あって,実に楽しかった.何が楽しいって,名古屋然り,横浜然り,親しみのある場所以外いっさい出てこなかった.良い映画でした.*7

  • PFU Happy Hacking Keyboard Professional BT(無刻印)を買った.(7月)
     キーボードがセブン銀行 ATM になりました.これであたいのデスク環境もさいきょうね!
     慣れるまで大変だけど慣れたら爽快.いっそマウスも欲しいけどまだ悩ましい. 
     

  • 国立科学博物館 特別展『植物 地球を支える仲間たち』に行った.(7月)
     科博の夏の特別展って,その年一番の目玉だと思うんですよ.科学少年少女が集まってくるわけで.その目玉展を植物一本で開催するとは,絶対に楽しいという直感がはたらいた.アングレカム・セスキペダレおよびキサントパンスズメガXanthopan morganii praedicta)の標本を観察することができたのも,カワゴケソウの生体を見ることができたのも貴重な経験でした.送粉者の気持ちになって展示を観察すると,きっと普通に見るより数段楽しいよ.

以下,申し訳程度の本文.

*1:しかし,私たち現世の人間も,そして大概,異世界の人々も,同じ世界の異民族でさえ(というか,同じ民族のなかでさえ)なかなか分かり合えず諍いを繰り返しているのに,仮令言葉が万能翻訳機などを介して通じたとしても,異種族間ってそう簡単に分かり合えるものだろうか,という疑問は相変わらずで.その点に関しては,

ヘテロゲニア リンギスティコ ~異種族言語学入門~ (1) (角川コミックス・エース)

が,面白かった.

*2:種の異なる生物の器官で,発生的に同一起源であること.たとえばクジラの胸鰭と馬の前脚とか.

*3:要するに,個体発生は,祖先生物が現生生物へ到るまでに辿った形態発生を再現しているという仮説.

*4:順番が前後したのはひとえにサムネイル都合であります

*5:厳密には『ゼロの執行人』を観たら望外に面白くて,完璧に予習し切った上で最新映画が観たくなった.ミステリィ好きは「緋色の〜」のタイトルに途轍もなく弱い.

*6:具体的には,当時 Hulu で配信されていた最新回がいわゆる修学旅行編だったので,そこまで.

*7:余談だが,翌日にうっかりセントレア中部国際空港まで走りに行った

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2020年総括(本のこと)

お久しぶりです.
2年ぶりの記事の題材としてリハビリがてら,読書を補助線に1年の総括する.今年読んで面白かった本や印象的だった本を入手順に振り返る. 

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目次

以下本文.


『ファッションと哲学 16人の思想家から学ぶファッション論入門

 言語活動としてのファッションが好きと云いつつ思えば鷲田清一『モードの迷宮』やロラン・バルトから一歩も進んでいない.そこで2年ほど前に出版された本書を手に取った.
今はフェミニズムクィア理論に興味の対象があるので,バトラーが読みたくなった.
余談だが,出版されてしばらく経ったあとに丸善ジュンク堂渋谷店で本書を中心に組まれたフェアが思い出深い.読書指針の一つである.

 

『統計の歴史』
統計の歴史

統計の歴史

 

 勉強のスタイルは人それぞれ,思考や知識を整理する癖も人それぞれだろう.私は体系的な理論の骨格に対して,鎹として歴史を裏付けに補強すると,すんなり腑に落ちる性癖がある.*1

好例は高校生が習う微分積分学の基本定理だろう.初見では「こんなの何が面白いねん」と思うものだが,しかし積分微分の歴史的隔たりを解していれば大変に味わい深い定理である.
統計学を学ぶ上で,どうも「何故こんな操作をするのか?」と腑に落ちない点が多くて読むことにした.経済学史と経済史はほとんど別物だが,同様に統計学の歴史と統計の歴史は全く別物であった.本書は人間社会と統計の関わりを述べた書物で,私が求めるものではなかったが,統計(学)の受容史として得るものは大きかった.
人々が見たくもない数字を突きつけられることに対して途方もないアレルギィがあるのは今も昔も変わらないのだな.そりゃ受容されるのも大変だ.

ちなみに,統計学史としては『異端の統計学 ベイズ』がよかった.*2

 

『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』

 これは大変に刺激的な書物であった.辞書を一から作るのではなく既存の辞書の保守であること,小説ではなくエッセイであることなどいくつかの違いに目を瞑れば,アメリカ版『舟を編む』っぽい.
読みながら,薫陶を受けた恩師の「辞書を引いている間に人生が終わってしまう恐怖を感じた」なんて箴言をふと思い出した.
何が面白いって,謝辞が実に面白い.純度100%の辞書に関する本ならではのユーモラスで小粋な謝辞でした.
余談だが,本書といい,映画『博士と狂人』といい,英語圏の大きな辞書に関する作品が連続した年でしたね.

 

『マーケットデザイン』
マーケットデザイン

マーケットデザイン

 

今年はいわゆる林ミクロや神取ミクロを読み続ける一年だったが,本書はオークションとマッチングにのみ焦点を絞った中級書.
Krishna は相当に気合いを入れなきゃ読めない,下手したら気合を入れても読めないが,本書は多分,事前知識不要で読めそう.数学的に難しい部分はなく,内容も翻訳も実に分かりやすい.


眼鏡橋華子の見立て』

たとえばic! berlin,less than humanなどの実在の眼鏡を巡る漫画,著者の眼鏡に対する愛がこれでもかというほど伝わってくる.レンズの表現に充てる熱量が尋常ではない.著者は登場人物の視力ごとにレンズの屈折率*3を描き分けているというのだから恐れ入る.*4
さて,私は眼鏡を愛してやまない.人生で最もお金を使ったものは本,その次は眼鏡である.そんな人間が読んでも面白いが,眼鏡を掛ける習慣があるが,眼鏡,或いは眼鏡をかけた自分が嫌いな人々に読んでほしい.きっと,ほんの少しだけ眼鏡が好きになる.
例によって余談だが,本書2巻44頁〜46頁,ついでに同著者の『メガネ画報』37頁〜42頁は思わず膝を叩いて同意した.

 

『ドリアン・グレイの肖像』 
ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

 

さっぱりノータッチのワイルドだったが,薫陶を受けた福田恆存の訳書が存在すると知り,居てもたってもいられず読了.
私はつい数年前まで文学青年だった筈が,いつしかフィクショナルな文章がほとんど読めなくなってしまった.*5
どうしようもない挫折感と喪失感の中,一回の中断を挟むのみで,最後まですぐに読み終えてしまった.
この記事を書きながらふと思った,そう,三島由紀夫『禁色』っぽい.
ウォットン卿の若さへの拘泥には懐疑的だが,蠱惑的で耽美的で病的なほどのヘドニズムに酔いしれてしまった.
本作が初ワイルド,いいタイミングでアスク出版から『オスカー・ワイルドで学ぶ英文法』が発売された.こちらも購入済みである.しっかり積んでいる.*6

 

『手を動かしてまなぶ集合と位相』 
手を動かしてまなぶ 集合と位相

手を動かしてまなぶ 集合と位相

  • 作者:敦, 藤岡
  • 発売日: 2020/08/24
  • メディア: 単行本
 

 逆に,手を動かして学ばない理学書とは一体なんぞやと突っ込みたくなってしまうタイトルだが,本書と『「集合と位相」をなぜ学ぶのか』*7の2冊合わせてようやく,ふわっとした理解が叶った.
迷子になりがちな行間を埋めてくれるのが大変にありがたく,内容の重さの割にさくさく進めることができた.
本書の前は『基幹講座 数学 論理・集合と位相』を読んでいた.同じシリーズの線型代数微分積分が良かったからと安易に手を出してしまった.ものの見事に挫折した.
ちなみに同著者の線型代数微分積分は,二色刷りで紙面の色がうるさくて読む気が起きなかった.内容は間違いないだろうに勿体ない…….

 

『ゼロから作るPython機械学習プログラミング』 

流行り物なので縷々語られているだろう.ゆえにあまり詳しく綴ろうとは思わないが,欲しいと思っていた本が欲しいと思っていた時期に欲しいと思っていた出版社から発売された.それだけで随分ありがたい.
コードがとても綺麗,式変形が喧しいほど丁寧.オライリーから出ている『ゼロから作るDeep Learning』は原著ゆえの読みやすさはあったものの「ゼロからとは?」と突っ込みながら読んだものだが,本書は少なくともゼロの極近傍から読めそうだった.

 

 『新装改訂版 現代数理統計学
新装改訂版 現代数理統計学

新装改訂版 現代数理統計学

 

創文社解散に伴い,古書価格が幻のような金額まで 跳ね上がっていた同書が増補されて学術図書出版から再販された.
ルベーグ積分の知識を要さず,推測統計学の諸項目を理論的に説明する類書は少なくとも日本語だと,多分ない.
東大出版会のいわゆる赤本などで統計学を一通りさらったは良いものの,なんだか誤魔化されている気がして腑に落ち切らない経験をした人は少なくないだろう,私もその一人である.その蟠りを経ていると,「何故そのモデルを使うとうまくいくのか?」等の疑問が日本語や数式を追えば飛躍なく氷解するのが堪らなかった.

 

『アリスに驚け』 
アリスに驚け

アリスに驚け

  • 作者:宏, 高山
  • 発売日: 2020/09/26
  • メディア: 単行本
 

アリス狩りの六冊目,学魔界隈では「やっっっと出たか」と話題だったらしい.私はよく知らない.
今年はアリスをよく読んだ.というのも,同じく高山宏訳『詳注アリス 完全決定版』がちょうど一年前に出版された為だ.解題集『トランスレーティッド』には及ばないが,ほぼ鈍器.間違いなく奇書の類.注釈を読んでいる間に本文を忘れて読み直す作業を延々と繰り返しながら読んだ.
後記の『詳注版シャーロック・ホームズ全集』然り,田崎晴明『熱力学』然り,読書においては,著者の親切等によって膨れ上がった注釈を読むこと,これが何よりも幸せなのだ.
表題の『アリスに驚け』はアリスについて触れている部分はさほど多くない,分量にしておよそ100頁強*8,しかし『不思議の国のアリス』冒頭のおそらく世界でも類がないほど有名なたった三行から始まる文化史的な読みの鋭さ,パノラマのように開けた視野と,暴力的な情報の洪水に圧倒される.
著者の『アリス狩り』は今回が初めてなので,古書店で見かけたら買い揃えようと思う.

『New Annotated Sherlock Holmes: The Novels: A Study In Scarlet / The Sign Of Four / The Hound Of The Baskervilles / The Valley Of Fear』
The New Annotated Sherlock Holmes: The Novels

The New Annotated Sherlock Holmes: The Novels

 

 ホームズの聖典は数多く出版されている.
邦訳ベースなら,最もよく手に取られているのは新潮文庫の延原訳,最近は角川文庫の駒月訳もちらほら見かける.新刊で手に入る中で最も訳註が詳しいのはJSHC創設のお二人による河出文庫.そしてヤフオクで震えるほど高騰している*9シャーロッキアン御用達の筑摩文庫,グールド版.*10
筑摩文庫のグールド版は,二段組で上半分が本編,下半分が注釈で組版されている.とにかくその注釈の量が膨大で,当該項目を探すのも本文に戻るのも大変なほどだ.*11
そんなグールド版をあろうことか増補したのが『The New Annotated Sherlock Holmes』その本である.三分冊だが,とにかくデカい.我が家の本の中では医歯薬出版の『医学大辞典』に次いでデカい.
2020年現在,邦訳はされていない.第1巻と第2巻は短編,第3巻には長編がすべて収録されている.*12*13
ちなみに恥を忍んで告白すると,本書,まだ一切読んでいない.イギリスの古書店から取り寄せたはいいものの,臭くて臭くて本を開くと喘鳴と咳嗽が止まらなくなる.

 

マクロ経済学 動学的一般均衡理論入門』

 つい1週間前にミネルヴァ書房様に直接問い合わせてどうにか手に入ったので,実はまだ数十頁しか読めていないのだが.然程読んでいないので書けることが特にない.
しかし少なくともマクロ経済学アレルギィは本書でどうにか克服できそうな気がする.

 

以上.

*1:その割には通史に不明なのだが.

*2:これはベイズ統計学史だが.類書ご存知の方居たら教えてください.

*3:原文ママ.たぶんディオプトリ(屈折力)の間違い?

*4:https://book.honcierge.jp/articles/interview/265

*5:この現象に対して“単に面白い小説が無いだけだよ”と突っ込まれたのはなかなか痛快であった.

*6:ちなみに同著者の前作『ヘミングウェイで学ぶ英文法』はヘミングウェイに興味が無さすぎて売ってしまった.アリスは手垢がびっしり付いているから,今度はホームズやスタインベックで書いてほしい.しかし次回はオー・ヘンリーだそうだ.どうしよう,困ったことに全く馴染みがない.

*7:絶対に2章から読もう.おじさんとの約束だぞ.

*8:残りはだいたい追悼文や賛辞,ガリヴァー旅行記の改題以外は未読.

*9:といっても無為に5万円程度まで高騰させているものはいつまで経っても売れていないけれど.

*10:書物の価値はあくまでも定価以下と思っているので2020年末現在,私は1,2,3,6.9巻しか揃っていない.

*11:それでも前掲の『詳注アリス』に比べれば相当読みやすい.これは注釈が多すぎて物語本編を探すのが大変だった.

*12:グールド版は物語中の時系列順に組まれている

*13:2020年現在,まだ1巻と2巻は諸般都合で入手できていないのだが,3冊並べると背表紙がホームズのシルエットになるのが愛書家心を擽る.

読書感想文『陰翳礼讃』

 震災による暗澹とした濃密な死の臭いが消え去らぬうちに、玉石混淆の様々な⾔葉が私たちの前で明滅する。

 玉石の「石」にあたる無思慮な言葉の一例を挙げる。私は、「義援⾦」という単語を⾒ると煮え切らない⻭がゆさのようなものを感じる。「援」という文字から、まるで私財を喜んで投げ打っているようにさえ感じられるからだ。本来「義捐⾦」と綴るべきところだが、戦後「捐」が当⽤漢字から外れた為に、代⽤表記で「援」が⽤いられるようになったことで、「義援」という歪な言葉が出来上がった。そんな経緯がある。元来、「捐」には「捨てる」という意味がある。よって、「義捐⾦」は「義によって捐てる(捨てる)⾦」と訓読し、⾦銭は⾃分にも必要ではあるけれど義理⼈情の為にやむを得ず困っている⼈に差し出す、どうしようもない板挟みのようなニュアンスが、漢字が無残な代⽤をされることによって抜け落ちてしまっている。
 さて、もし仮に「陰翳」を「陰影」と綴れば同様のニュアンスの⽋落がある。「翳」の字が当⽤漢字から外れて、「陰影」が⼀般的になったようだ。これを国語辞典で引いてみると「光の当たらない、暗い部分。かげ」と解説がある。しかし、「翳」の⽂字によって想起させられる印象は、あまりに単純な「光と影」という分断的⼆元論とは趣を異にする。「翳」が持つ表情は薄明り絹傘を差して出来た仄暗い薄明り、コントラストではなくグラデーションを帯びた翳り。「陰」はそこに、ひそやかで、しめやかで、しめりけを帯びた色彩を与える。

 いくら素晴らしい書物であったとしても、書かれた時代や⽂化的背景を充分に理解せず前提の共有がなされない書物を鵜呑みにしてはいけない。その行為は盲信に等しい愚行である。たとえ当時如何に素晴らしくても、無条件に共有できない価値観も、元に戻れない観賞用の価値観もあるものだ。

 したがって先ずは文章が書かれた時代背景を確認する。『陰翳礼讃』が世に出たのは1933年、雑誌『経済往来』に掲載された。大正時代はまさに⽇本全体が西洋崇拝の熱にとりつかれ、⻄洋列強に追いつけ追い越せと⾔わんばかりに舶来⽂化がなだれこみ、⽇本⽂化が駆逐される時代の最中だ。その潮流にそっぽを向いてこの随筆を記したことは想像に難くない。また、⾕崎を論ずる上で関東⼤震災(1923年)の前後で区切ることも不可⽋である。⺟親譲りで⼤の地震嫌いな彼は、これを機に、横浜から関⻄へ居を移し、⼤正期まで好んでいたモダンな⻄洋的⽣活様式を捨て、⽇本の伝統⽂化へと傾倒していった。その様⼦を『陰翳礼讃』から⾒て取るのは容易だろう(まるで⻄洋⽂化に傾倒していた時期は黒歴史と言わんばかりに臭い物として蓋をしているようにも思えるが)。

 近代化、⻄洋化の波に攫われ、変容する⽇本⽂化を憂いながら、中世日本的で豊潤な「陰翳」を、家屋、厠、料理、⼯芸品、⼥体に⾒出し、薄闇と薄明り、朦朧とした果敢ない⽇本的な幽⽞の美を、⾕崎は微に⼊り細を穿ち、礼讃する。明治以来、わが国は住宅設備も障⼦から硝子へ、⾏燈から電燈へ、⽊材からタイル貼りへと、⽣活様式が近代化(=⻄洋化)される。照明や電気の発展に伴い、まるで闇を忌避するかのように部屋の景観はより明るいものが好まれるようになった。しかし、たとえば男は背広を⽻織り⼥はスカートを履くなどして、恰好をいくら取り繕い、⽣活様式を模倣することは難しくはないが、美的感覚はそう簡単に変わるものではない。そんな時勢の中、⽇本⼈が培ってきた感性や美的感覚と、近代化という悪魔に取り憑かれ一気呵成に取り繕った⽣活様式とが歪に乖離した環境を⾕崎は憂いている。

“⼀と⼝に云うと、⻄洋の⽅は順当な⽅向を辿って今⽇に到達したのであり、我等の⽅は、優秀な⽂明に逢着してそれを取り⼊れざるを得なかった代わりに、過去数千年来発展し来った進路とは違った⽅向へ歩み出すようになった、そこからいろいろな故障はや不便が起っていると思われる。(陰翳礼讃)“

  古典とは、古典だから偉いわけではない。素晴らしいからこそ数百年、数千年の吟味に対する耐⽤年数を誇り、読まれ続けてきたのだ。伝統⼯芸も同様であろう。それらもまた同様に滅多⽮鱈に古いわけではないし、古いことは優れているための充分条件ではない。長い年⽉を経ても鑑賞の価値があるからこそ発展し、⽣きながらえてきたのだ。しかしながら、⾕崎が漆や⾦蒔絵、⾦屏⾵、袈裟を引き合いにして指摘するように、これらは仄暗い蔭との調和によって美を感じ、⾔い知れぬ余情を催すのである。なるほど、⽣活様式の殆どが⻄洋化された現代において、⽇本の伝統⼯芸の価値が⾒失われている理由もこれで得⼼がいく。絢爛と輝く電球の下で鑑賞するようには端から作られていない為だ。古きものは全て、障⼦越しの太陽光、薄暗い⽉明りや紙越しの蝋燭の光――ややもすれば、雪に反射した夜の⽉明りや絹袋に⼊れた蛍のような――光の乏しい仄暗い闇と柔らかな薄明かりの調和の中で⽣まれたものであるということを、私たちは忘れてはいけない。ゆえに私たちは無暗に⽂化保全という美辞麗句を並べて満⾜するのではなく、もっと根本的な⽣活様式や、美意識をも矯正すべきなのかもしれない。

 ⾕崎を語る上で切っても切り離せないものは関東⼤震災の他にも⾊々あるが、最たるものの⼀つは源⽒物語への執着であろう。現に、「とても⽣きている間には書ききれない」と⾔うほど創作意欲旺盛だった⾕崎が、⻑い年⽉をかけて、源⽒物語の現代語訳という⼤業を三度も成している。源⽒物語への執着は並⼤抵ではないことは⾃明である。⾕崎は、⽇本⼩説の中では『源⽒物語』がいちばんしっかりしている、建築にたとえられる、とまで⾔っている。

 源⽒物語の粗筋を、誤解を承知で⼀⽂に要約すると「⾊男が複数⼈の⼥性と関係を持ちながら⽴⾝出世する物語」と⾔える。そんな源⽒物語の特徴的な点、筆者個人の好きな点の⼀つは、直接的な性描写がないことにある。それどころか、はっきりとした⾝体描写も殆どない。よって読者は極めて限定的な情報から⼥性の体つき、そして⼀夜の営みを想像することを迫られる。平安の⼥性貴族は、絶えず御簾に隠れ、扇で顔を隠蔽し、滅多やたらと男性には顔を⾒せないのが⾃然であったそうだ。男性が顔を「⾒る」ことが叶うのは想いが成就し、⼀夜を共にした翌朝が最初である。それまでは恋⽂を送り合い、御簾越しに様⼦を伺うだけだ。⽂と声だけでやり取りをした相⼿と、仄暗い翳の下ではじめて契りを結び、観念的で感傷的なだけであった慕情が逆ベクトルに反転し、互いの⾝体性だけが鋭敏になる。エロスの境地であろう。

“欲望的な態度で⼀つの対象を知覚することは、この対象において私を愛撫することである。かくして、私は、対象の形態に対してよりも、また対象の⽤具性に対してよりも、むしろ対象の素材に対して、いっそう敏感になる。(サルトル存在と無』)”

 そして、翌朝はじめて「⾒る」ことによって⼀夜の情念は如何にでも変容しようが、言葉だけのやり取りによって理想が醸成された相⼿が完全に「⾒えた」ときは⼤概ネガティヴに働くであろうということもまた想像に難くない。
 ⾕崎において「⾒(え)る」エロスと「⾒(え)ない」エロスが対照的なのは『痴⼈の愛』と『春琴抄』であろう。
 予め断っておくが、以下は私の単なる感想である。『痴⼈の愛』を読んでいても、全くナオミが美しい女性だとは感じられない。主⼈公にとってもナオミは常に美しく尊いものであったわけではない。それを⽰すかのような印象的な⼀節がある。

 “電⾞の中でも、私はわざと反対の側に腰かけて、⾃分の前に居るナオミと云うものを、も⼀度つくづくと眺める気になりました。全体⼰はこの⼥の何処がよくって、こうまで惚れているのだろう? あの⿐かしら? あの眼かしら? と、そう云う⾵に数え⽴てると、不思議なことに、いつもあんなに私に対して魅⼒のある顔が、今夜は実につまらなく、下らないものに思えるのでした。すると私の記憶の底には、⾃分が始めてこの⼥に会った時分、―――あのダイヤモンド・カフエエの頃のナオミの姿がぼんやり浮かんで来るのでした。が、今に⽐べるとあの時分はずっと好かった。無邪気で、あどけなくて、内気な、陰鬱なところがあって、こんなガサツな、⽣意気な⼥とは似ても似つかないものだった。⼰はあの頃のナオミに惚れたので、それの惰勢が今⽇まで続いて来たのだけれど、考えて⾒れば知らない間に、この⼥は随分たまらないイヤな奴になっているのだ。(中略)彼⼥は少し反り⾝になって、顔を仰向けにしているので、ちょうど私の座席からは、彼⼥が最も⻄洋⼈臭さを誇っているところの獅⼦ッ⿐の孔が、⿊々と覗けました。そして、その洞⽳の左右には分厚い⼩⿐の⾁がありました。思えば私は、この⿐の孔とは朝⼣深い馴染なのです。毎晩々々、私がこの⼥を抱いてやるとき、常にこう云う⾓度からこの洞⽳を覗き込み、ついこの間もしたようにその洟をかんでやり、⼩⿐の周りを愛撫してやり、⼜或る時は⾃分の⿐とこの⿐とを、楔のように喰い違わせたりするのですから、つまりこの⿐は、―――この、⼥の顔のまん中に附着している⼩さな⾁の塊は、まるで私の体の⼀部も同じことで、決して他⼈の物のようには思えません。が、そう云う感じを以て⾒ると、⼀層それが憎らしく汚らしくなって来るのでした。(『痴⼈の愛』)”

  そもそも最初から、主⼈公はナオミの美しさに惹かれて光源⽒が紫の上にしたように養育する、いわゆる光源氏計画を実⾏したわけではない。しかし、ダンス帰りの電⾞での描写、ナオミの容姿をめずらしく冷静に、しみじみと詳細に描写し、⼩⿐を⾁塊とまで唾棄するのは、ファム・ファタルに対し徐々に⽬が覚めつつあるのだろうと読むことができる。
 他⽅、『春琴抄』はやはり対照的だ。先ず、すこし丁寧に物語を確認しよう。佐助が春琴の元へ下僕として奉公に来た時点で、春琴は失明をしている。ゆえに、春琴は先天的な盲⽬ではないが、⽣涯佐助の容貌を「⾒る」ことはなかった。春琴の容姿は美しく、“春琴幼にして穎悟、加うるに容姿端麗にして⾼雅なること譬えんに物なし”とさえ記されるほどだ。丁稚奉公の佐助は、そんな春琴を⼼底から⼼酔し、⾝の回りの世話をする。ある時、何者かが春琴の屋敷に侵⼊し、春琴の顔に熱湯を浴びせ、美しい相貌に⼤きな⽕傷を負わせる(この犯⼈は明らかになっていない)。⽣命に別状はなかったものの、⽕傷によって春琴の“容姿端麗にして高雅なること譬えんに物なし”とまで言わしめた美しい顔は無残に爛れた。そんな顔を佐助に⾒られることに耐えられない彼⼥の思いを汲み取り、佐助は、両眼を⾃ら針で突き失明する。マゾヒズムの最⾼到達点で、⽇本⽂学史上もっともショッキングで、最も美しい場⾯と思う。

“按ずるに視覚を失った相愛の男⼥が触覚の世界を楽しむ程度は到底われ等の想像を許さぬものがあろうさすれば佐助が献⾝的に春琴に仕え春琴がまた怡々としてその奉仕を求め互に倦むことを知らなかったのも訝しむに⾜りない(『陰翳礼讃』)”

 重要なのは、「⾒ない」ことによって佐助のマゾヒズムが成就されると同時に、彼にとって、美しい春琴の姿は永遠になった。何でも絢爛と照らし、可視化する美意識に拘泥する限り到底理解は及ばぬ美の境地であろう。
 余談だが、『春琴抄』には改⾏も句読点も殆ど存在しない。擬古的な⽂体で、かなり取っつきづらい。薄墨でさらさらと書いたように⽂章が連綿と続く『春琴抄』、或いは盲者による⼀気呵成の語りを全編ひらがなで展開した『盲⼈物語』、秘密の⽇記をカタカナで記した『瘋癲⽼⼈⽇記』は明らかに迂遠な⽂体で書かれている。

“尤も私がこう云うことを書いた趣意は、何等かの⽅⾯、たとえば⽂学藝術等にその損を補う道が残されていはしまいかと思うからである。私は、われ/\が既に失いつゝある陰翳の世界を、せめて⽂学の領域へでも呼び返してみたい。⽂学という殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、⾒え過ぎるものを闇に押し込め、無⽤の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。(『陰翳礼讃』)”

 ここに述べられる陰翳の⽂学は「⾒(え)ないこと」を意図した迂遠な⽂体に現れていると⾔うことはできないだろうか。

 迂遠ゆえに妙味、一層味わい深い。

 

 試しに電燈を消してみることだ――そう述べる⾕崎に倣い、まずは電燈を消してみた。パソコンの液晶が煌々と机を灯し、道路を⾛る⾞のヘッドライトがちらちらとガラス越しに部屋を派手に照らす。部屋の隅では電化製品のスイッチが光る。

 ⾵情や情緒などあったものではない。

 なるほど、⽣活様式のパラダイムシフトは、模倣はできても最早叶わぬ幻想のようだ。

 

参考⽂献

『源⽒物語の現代語訳について』(⾕崎潤⼀郎)

春琴抄』(⾕崎潤⼀郎)

『痴⼈の愛』(⾕崎潤⼀郎)

『陰翳礼讃』(⾕崎潤⼀郎)

『⾕崎潤⼀郎年譜』(夢ムック 2015)

『⾕崎潤⼀郎論 〈型〉と表現』 (佐藤淳⼀)

『東⼤で⽂学を学ぶ ドストエフスキーから⾕崎潤⼀郎へ 』(辻原登)

存在と無』(ジャン=ポール・サルトル)

 

スーツを作る その2

 前回のあらすじ.

 ・スーツを作ろう.

 ・Universal Language Measure'sで作ろう.

 ・さてどうしよう.

あらすじおしまい.


 

 愚生のスーツに対する需要を書き記しておく.
 私は決してスーツを仕事で着るわけではないし,着ることが求められる場面もそう滅多にない.せいぜい葬式か結婚式ぐらいだろうが,若くして結婚するような生き方をしている友人は居ないし葬式を頻繁にするほど親戚も居ない.20代だが,葬式の方が近そうな友人の方がよほど多い.

 要するにスーツは選び放題である.ただの私服だ,シングルのピークドラペルだろうがダブルブレステッドだろうがなんでもござれ.生地は華やかなほうがより面白い.
 好みをいえば,シングルの2ピースがあまり好きではない.今回も3ピースが大前提,さらにウエストコートはダブルの襟付きなんて酔狂な事をするつもりで.

 

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スーツを作る その1

「そうだ,スーツを作ろう」

 個人的な好みや趣味嗜好,スーツを作るに到った経緯(身の上話)は別記事に譲るとして,とにかく,そう思い立ってスーツを作った.
 時代の潮流なのだろうか,オーダースーツに関してもアフィリエイトベースの記事が非常に多いので,収益もなければ収益化する気もないし出来るわけがない弱小者が記す意義もあるだろう.

 

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ラジオは聞こう

 筆者の世代が18や19の頃は,今ほどスマートフォンや動画のストリーミング再生の環境は整っていなかったように思う.
 小学時分,任天堂から初代のDSが発売され,筆者ははじめてWi-Fiの存在を身近に知った.今でも覚えている,たしか冬だったと思う.ゲーム少年だった私は,通信ケーブルからの開放感よりも,Wi-Fiの存在に心を奪われた。Wi-Fiについて調べ上げ,どうやら「マクドナルドにはアクセス・ポイントなるものがあるらしい」と突き止めた.ランドセルの底からDSを取り出し,ランドセルを家に投げ捨て,近所のいきつけのマクドナルドに駆けた.
「アクセス・ポイントって、どこにありますか?」
 Wi-Fiを知らぬと言う人は,今の時世にはそう居ないと思う.推定大学生のアルバイト店員は,鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた.
 かつてランドセルの底にあった傷だらけの銀色のDSは,やがてアイマスラブプラス専用機になった.
 時は移ろい,iPhoneをはじめて手にしたのは中学生の頃だった.当時の友人・知人の反応は様々だが,「ヘンなケータイ」という含みのある反応が多かった.
 iPhone3Gをもっているだけで物珍らしさゆえに同級生に囲まれ,スマートフォンを持って集まっている集団は決まってTwitterのオフ会であった.
 あらゆるところに公衆Wi-Fiが普及するのも,仕上がったネーチャンまでこぞって下を向いてFateシリーズのエミヤのイラストが映った四角い板を一心不乱に擦っているのも,当時の私が聞いたら「このおっさん,アホか」と相手にしないだろう.公衆Wi-Fiが使えるカフェといえばリナカフェ,iPhoneを擦るネーチャンといえばリナカフェの野暮ったい"ついったったー"達だった.
 
 昨今の受験生の勉強風景を喫茶店などで見ていると,好きな動画をストリーミング再生しているスマートフォンを手元に置き,ちらちらと脇目を振りながら教科書を開く姿がお馴染みになった.「不真面目だなぁ」と思うことも最早ない.我々の頃の受験のお供といえば,せいぜい音楽が限界だった.
 更に遡ると,ステレオタイプな受験生としては,夜更かしのお供にAMラジオを流す姿を想像する.私達の一回り上の世代までだと思う.カセットラジオを積み上がった参考書の上に置いて,安い片耳イヤホンを付け,褞袍を羽織って,笑いを必死で堪えながら深夜ラジオを楽しんでいるのが,私の中で変わらぬ浪人生のステレオタイプである.高校,浪人当時から私はラジオが好きで,今もひたすら聴いている.現在進行系である.しかし今はスマートフォンやパソコンのIPラジオを用いて,スピーカー垂れ流しで,笑いを堪えず腹を抱えて笑いながら聴いている.時代遅れなのか,最先端なのかよく分からぬねじれた楽しみ方だと思う.
 しかし過去のステレオタイプと侮るなかれ.『知ってる?24時』や『目からウロコ!24』を前身とする往年のくりぃむANNは特に顕著で特殊な例だけれど,今でも、どの深夜ラジオを聴いていても浪人生らしきリスナーからのメールはあまり珍しくない.最近も,仕事先でアルピーD.C garageを聞きながら勉強する受験生に会った.彼は他にも2,3のラジオを聞く,なかなか浸かりきってるリスナーらしい.よく笑いを堪えられるなと,思わず感心した.
 私は手書きの暖かさも熱意も誠意も信じない.「職人の手作業」という謳い文句には食傷気味だし,ファミレスなどで「手作り○○」という言葉を見るとゲッソリして食欲が失せる.
 それでも,ストリーミング動画再生が手頃になった今でさえ,こうしてめくるめく速さで代替わりをしながらも,一部の層に根強く残るラジオ文化には何か信じざるを得ない,アナログなりの魅力がある.思えば自分も,ラジオと同時放送のスタジオ映像があっても徹底的に「声だけ」の放送に拘泥する癖がある.
 孤独な非常に苦しい深夜の勉強と,友達のくだらない内輪話のようなトークは親和性がある.深夜の暗い部屋で聴く生放送の一体感もさることながら,ラジオを聴きこんで一週間かけて作ったネタメールを読まれた時の高揚感,それがウケたときの陶酔感は癖になる.
 筆者自身は,最近はある程度落ち着いたものの,土曜日以外は毎日六時間ひたすらラジオの生放送を聴き続け,それ以外の時間帯は過去放送分の録音を強迫神経症よろしく垂れ流す生活を送っていた.失ったものは多いけれど,得たものは果たして.
 ラジオは、聞くものです.
 実に楽しいものですが,聴きすぎると後悔する.