ラジオは聞こう

 筆者の世代が18や19の頃は,今ほどスマートフォンや動画のストリーミング再生の環境は整っていなかったように思う.
 小学時分,任天堂から初代のDSが発売され,筆者ははじめてWi-Fiの存在を身近に知った.今でも覚えている,たしか冬だったと思う.ゲーム少年だった私は,通信ケーブルからの開放感よりも,Wi-Fiの存在に心を奪われた。Wi-Fiについて調べ上げ,どうやら「マクドナルドにはアクセス・ポイントなるものがあるらしい」と突き止めた.ランドセルの底からDSを取り出し,ランドセルを家に投げ捨て,近所のいきつけのマクドナルドに駆けた.
「アクセス・ポイントって、どこにありますか?」
 Wi-Fiを知らぬと言う人は,今の時世にはそう居ないと思う.推定大学生のアルバイト店員は,鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた.
 かつてランドセルの底にあった傷だらけの銀色のDSは,やがてアイマスラブプラス専用機になった.
 時は移ろい,iPhoneをはじめて手にしたのは中学生の頃だった.当時の友人・知人の反応は様々だが,「ヘンなケータイ」という含みのある反応が多かった.
 iPhone3Gをもっているだけで物珍らしさゆえに同級生に囲まれ,スマートフォンを持って集まっている集団は決まってTwitterのオフ会であった.
 あらゆるところに公衆Wi-Fiが普及するのも,仕上がったネーチャンまでこぞって下を向いてFateシリーズのエミヤのイラストが映った四角い板を一心不乱に擦っているのも,当時の私が聞いたら「このおっさん,アホか」と相手にしないだろう.公衆Wi-Fiが使えるカフェといえばリナカフェ,iPhoneを擦るネーチャンといえばリナカフェの野暮ったい"ついったったー"達だった.
 
 昨今の受験生の勉強風景を喫茶店などで見ていると,好きな動画をストリーミング再生しているスマートフォンを手元に置き,ちらちらと脇目を振りながら教科書を開く姿がお馴染みになった.「不真面目だなぁ」と思うことも最早ない.我々の頃の受験のお供といえば,せいぜい音楽が限界だった.
 更に遡ると,ステレオタイプな受験生としては,夜更かしのお供にAMラジオを流す姿を想像する.私達の一回り上の世代までだと思う.カセットラジオを積み上がった参考書の上に置いて,安い片耳イヤホンを付け,褞袍を羽織って,笑いを必死で堪えながら深夜ラジオを楽しんでいるのが,私の中で変わらぬ浪人生のステレオタイプである.高校,浪人当時から私はラジオが好きで,今もひたすら聴いている.現在進行系である.しかし今はスマートフォンやパソコンのIPラジオを用いて,スピーカー垂れ流しで,笑いを堪えず腹を抱えて笑いながら聴いている.時代遅れなのか,最先端なのかよく分からぬねじれた楽しみ方だと思う.
 しかし過去のステレオタイプと侮るなかれ.『知ってる?24時』や『目からウロコ!24』を前身とする往年のくりぃむANNは特に顕著で特殊な例だけれど,今でも、どの深夜ラジオを聴いていても浪人生らしきリスナーからのメールはあまり珍しくない.最近も,仕事先でアルピーD.C garageを聞きながら勉強する受験生に会った.彼は他にも2,3のラジオを聞く,なかなか浸かりきってるリスナーらしい.よく笑いを堪えられるなと,思わず感心した.
 私は手書きの暖かさも熱意も誠意も信じない.「職人の手作業」という謳い文句には食傷気味だし,ファミレスなどで「手作り○○」という言葉を見るとゲッソリして食欲が失せる.
 それでも,ストリーミング動画再生が手頃になった今でさえ,こうしてめくるめく速さで代替わりをしながらも,一部の層に根強く残るラジオ文化には何か信じざるを得ない,アナログなりの魅力がある.思えば自分も,ラジオと同時放送のスタジオ映像があっても徹底的に「声だけ」の放送に拘泥する癖がある.
 孤独な非常に苦しい深夜の勉強と,友達のくだらない内輪話のようなトークは親和性がある.深夜の暗い部屋で聴く生放送の一体感もさることながら,ラジオを聴きこんで一週間かけて作ったネタメールを読まれた時の高揚感,それがウケたときの陶酔感は癖になる.
 筆者自身は,最近はある程度落ち着いたものの,土曜日以外は毎日六時間ひたすらラジオの生放送を聴き続け,それ以外の時間帯は過去放送分の録音を強迫神経症よろしく垂れ流す生活を送っていた.失ったものは多いけれど,得たものは果たして.
 ラジオは、聞くものです.
 実に楽しいものですが,聴きすぎると後悔する.