読書感想文『陰翳礼讃』

 震災による暗澹とした濃密な死の臭いが消え去らぬうちに、玉石混淆の様々な⾔葉が私たちの前で明滅する。

 玉石の「石」にあたる無思慮な言葉の一例を挙げる。私は、「義援⾦」という単語を⾒ると煮え切らない⻭がゆさのようなものを感じる。「援」という文字から、まるで私財を喜んで投げ打っているようにさえ感じられるからだ。本来「義捐⾦」と綴るべきところだが、戦後「捐」が当⽤漢字から外れた為に、代⽤表記で「援」が⽤いられるようになったことで、「義援」という歪な言葉が出来上がった。そんな経緯がある。元来、「捐」には「捨てる」という意味がある。よって、「義捐⾦」は「義によって捐てる(捨てる)⾦」と訓読し、⾦銭は⾃分にも必要ではあるけれど義理⼈情の為にやむを得ず困っている⼈に差し出す、どうしようもない板挟みのようなニュアンスが、漢字が無残な代⽤をされることによって抜け落ちてしまっている。
 さて、もし仮に「陰翳」を「陰影」と綴れば同様のニュアンスの⽋落がある。「翳」の字が当⽤漢字から外れて、「陰影」が⼀般的になったようだ。これを国語辞典で引いてみると「光の当たらない、暗い部分。かげ」と解説がある。しかし、「翳」の⽂字によって想起させられる印象は、あまりに単純な「光と影」という分断的⼆元論とは趣を異にする。「翳」が持つ表情は薄明り絹傘を差して出来た仄暗い薄明り、コントラストではなくグラデーションを帯びた翳り。「陰」はそこに、ひそやかで、しめやかで、しめりけを帯びた色彩を与える。

 いくら素晴らしい書物であったとしても、書かれた時代や⽂化的背景を充分に理解せず前提の共有がなされない書物を鵜呑みにしてはいけない。その行為は盲信に等しい愚行である。たとえ当時如何に素晴らしくても、無条件に共有できない価値観も、元に戻れない観賞用の価値観もあるものだ。

 したがって先ずは文章が書かれた時代背景を確認する。『陰翳礼讃』が世に出たのは1933年、雑誌『経済往来』に掲載された。大正時代はまさに⽇本全体が西洋崇拝の熱にとりつかれ、⻄洋列強に追いつけ追い越せと⾔わんばかりに舶来⽂化がなだれこみ、⽇本⽂化が駆逐される時代の最中だ。その潮流にそっぽを向いてこの随筆を記したことは想像に難くない。また、⾕崎を論ずる上で関東⼤震災(1923年)の前後で区切ることも不可⽋である。⺟親譲りで⼤の地震嫌いな彼は、これを機に、横浜から関⻄へ居を移し、⼤正期まで好んでいたモダンな⻄洋的⽣活様式を捨て、⽇本の伝統⽂化へと傾倒していった。その様⼦を『陰翳礼讃』から⾒て取るのは容易だろう(まるで⻄洋⽂化に傾倒していた時期は黒歴史と言わんばかりに臭い物として蓋をしているようにも思えるが)。

 近代化、⻄洋化の波に攫われ、変容する⽇本⽂化を憂いながら、中世日本的で豊潤な「陰翳」を、家屋、厠、料理、⼯芸品、⼥体に⾒出し、薄闇と薄明り、朦朧とした果敢ない⽇本的な幽⽞の美を、⾕崎は微に⼊り細を穿ち、礼讃する。明治以来、わが国は住宅設備も障⼦から硝子へ、⾏燈から電燈へ、⽊材からタイル貼りへと、⽣活様式が近代化(=⻄洋化)される。照明や電気の発展に伴い、まるで闇を忌避するかのように部屋の景観はより明るいものが好まれるようになった。しかし、たとえば男は背広を⽻織り⼥はスカートを履くなどして、恰好をいくら取り繕い、⽣活様式を模倣することは難しくはないが、美的感覚はそう簡単に変わるものではない。そんな時勢の中、⽇本⼈が培ってきた感性や美的感覚と、近代化という悪魔に取り憑かれ一気呵成に取り繕った⽣活様式とが歪に乖離した環境を⾕崎は憂いている。

“⼀と⼝に云うと、⻄洋の⽅は順当な⽅向を辿って今⽇に到達したのであり、我等の⽅は、優秀な⽂明に逢着してそれを取り⼊れざるを得なかった代わりに、過去数千年来発展し来った進路とは違った⽅向へ歩み出すようになった、そこからいろいろな故障はや不便が起っていると思われる。(陰翳礼讃)“

  古典とは、古典だから偉いわけではない。素晴らしいからこそ数百年、数千年の吟味に対する耐⽤年数を誇り、読まれ続けてきたのだ。伝統⼯芸も同様であろう。それらもまた同様に滅多⽮鱈に古いわけではないし、古いことは優れているための充分条件ではない。長い年⽉を経ても鑑賞の価値があるからこそ発展し、⽣きながらえてきたのだ。しかしながら、⾕崎が漆や⾦蒔絵、⾦屏⾵、袈裟を引き合いにして指摘するように、これらは仄暗い蔭との調和によって美を感じ、⾔い知れぬ余情を催すのである。なるほど、⽣活様式の殆どが⻄洋化された現代において、⽇本の伝統⼯芸の価値が⾒失われている理由もこれで得⼼がいく。絢爛と輝く電球の下で鑑賞するようには端から作られていない為だ。古きものは全て、障⼦越しの太陽光、薄暗い⽉明りや紙越しの蝋燭の光――ややもすれば、雪に反射した夜の⽉明りや絹袋に⼊れた蛍のような――光の乏しい仄暗い闇と柔らかな薄明かりの調和の中で⽣まれたものであるということを、私たちは忘れてはいけない。ゆえに私たちは無暗に⽂化保全という美辞麗句を並べて満⾜するのではなく、もっと根本的な⽣活様式や、美意識をも矯正すべきなのかもしれない。

 ⾕崎を語る上で切っても切り離せないものは関東⼤震災の他にも⾊々あるが、最たるものの⼀つは源⽒物語への執着であろう。現に、「とても⽣きている間には書ききれない」と⾔うほど創作意欲旺盛だった⾕崎が、⻑い年⽉をかけて、源⽒物語の現代語訳という⼤業を三度も成している。源⽒物語への執着は並⼤抵ではないことは⾃明である。⾕崎は、⽇本⼩説の中では『源⽒物語』がいちばんしっかりしている、建築にたとえられる、とまで⾔っている。

 源⽒物語の粗筋を、誤解を承知で⼀⽂に要約すると「⾊男が複数⼈の⼥性と関係を持ちながら⽴⾝出世する物語」と⾔える。そんな源⽒物語の特徴的な点、筆者個人の好きな点の⼀つは、直接的な性描写がないことにある。それどころか、はっきりとした⾝体描写も殆どない。よって読者は極めて限定的な情報から⼥性の体つき、そして⼀夜の営みを想像することを迫られる。平安の⼥性貴族は、絶えず御簾に隠れ、扇で顔を隠蔽し、滅多やたらと男性には顔を⾒せないのが⾃然であったそうだ。男性が顔を「⾒る」ことが叶うのは想いが成就し、⼀夜を共にした翌朝が最初である。それまでは恋⽂を送り合い、御簾越しに様⼦を伺うだけだ。⽂と声だけでやり取りをした相⼿と、仄暗い翳の下ではじめて契りを結び、観念的で感傷的なだけであった慕情が逆ベクトルに反転し、互いの⾝体性だけが鋭敏になる。エロスの境地であろう。

“欲望的な態度で⼀つの対象を知覚することは、この対象において私を愛撫することである。かくして、私は、対象の形態に対してよりも、また対象の⽤具性に対してよりも、むしろ対象の素材に対して、いっそう敏感になる。(サルトル存在と無』)”

 そして、翌朝はじめて「⾒る」ことによって⼀夜の情念は如何にでも変容しようが、言葉だけのやり取りによって理想が醸成された相⼿が完全に「⾒えた」ときは⼤概ネガティヴに働くであろうということもまた想像に難くない。
 ⾕崎において「⾒(え)る」エロスと「⾒(え)ない」エロスが対照的なのは『痴⼈の愛』と『春琴抄』であろう。
 予め断っておくが、以下は私の単なる感想である。『痴⼈の愛』を読んでいても、全くナオミが美しい女性だとは感じられない。主⼈公にとってもナオミは常に美しく尊いものであったわけではない。それを⽰すかのような印象的な⼀節がある。

 “電⾞の中でも、私はわざと反対の側に腰かけて、⾃分の前に居るナオミと云うものを、も⼀度つくづくと眺める気になりました。全体⼰はこの⼥の何処がよくって、こうまで惚れているのだろう? あの⿐かしら? あの眼かしら? と、そう云う⾵に数え⽴てると、不思議なことに、いつもあんなに私に対して魅⼒のある顔が、今夜は実につまらなく、下らないものに思えるのでした。すると私の記憶の底には、⾃分が始めてこの⼥に会った時分、―――あのダイヤモンド・カフエエの頃のナオミの姿がぼんやり浮かんで来るのでした。が、今に⽐べるとあの時分はずっと好かった。無邪気で、あどけなくて、内気な、陰鬱なところがあって、こんなガサツな、⽣意気な⼥とは似ても似つかないものだった。⼰はあの頃のナオミに惚れたので、それの惰勢が今⽇まで続いて来たのだけれど、考えて⾒れば知らない間に、この⼥は随分たまらないイヤな奴になっているのだ。(中略)彼⼥は少し反り⾝になって、顔を仰向けにしているので、ちょうど私の座席からは、彼⼥が最も⻄洋⼈臭さを誇っているところの獅⼦ッ⿐の孔が、⿊々と覗けました。そして、その洞⽳の左右には分厚い⼩⿐の⾁がありました。思えば私は、この⿐の孔とは朝⼣深い馴染なのです。毎晩々々、私がこの⼥を抱いてやるとき、常にこう云う⾓度からこの洞⽳を覗き込み、ついこの間もしたようにその洟をかんでやり、⼩⿐の周りを愛撫してやり、⼜或る時は⾃分の⿐とこの⿐とを、楔のように喰い違わせたりするのですから、つまりこの⿐は、―――この、⼥の顔のまん中に附着している⼩さな⾁の塊は、まるで私の体の⼀部も同じことで、決して他⼈の物のようには思えません。が、そう云う感じを以て⾒ると、⼀層それが憎らしく汚らしくなって来るのでした。(『痴⼈の愛』)”

  そもそも最初から、主⼈公はナオミの美しさに惹かれて光源⽒が紫の上にしたように養育する、いわゆる光源氏計画を実⾏したわけではない。しかし、ダンス帰りの電⾞での描写、ナオミの容姿をめずらしく冷静に、しみじみと詳細に描写し、⼩⿐を⾁塊とまで唾棄するのは、ファム・ファタルに対し徐々に⽬が覚めつつあるのだろうと読むことができる。
 他⽅、『春琴抄』はやはり対照的だ。先ず、すこし丁寧に物語を確認しよう。佐助が春琴の元へ下僕として奉公に来た時点で、春琴は失明をしている。ゆえに、春琴は先天的な盲⽬ではないが、⽣涯佐助の容貌を「⾒る」ことはなかった。春琴の容姿は美しく、“春琴幼にして穎悟、加うるに容姿端麗にして⾼雅なること譬えんに物なし”とさえ記されるほどだ。丁稚奉公の佐助は、そんな春琴を⼼底から⼼酔し、⾝の回りの世話をする。ある時、何者かが春琴の屋敷に侵⼊し、春琴の顔に熱湯を浴びせ、美しい相貌に⼤きな⽕傷を負わせる(この犯⼈は明らかになっていない)。⽣命に別状はなかったものの、⽕傷によって春琴の“容姿端麗にして高雅なること譬えんに物なし”とまで言わしめた美しい顔は無残に爛れた。そんな顔を佐助に⾒られることに耐えられない彼⼥の思いを汲み取り、佐助は、両眼を⾃ら針で突き失明する。マゾヒズムの最⾼到達点で、⽇本⽂学史上もっともショッキングで、最も美しい場⾯と思う。

“按ずるに視覚を失った相愛の男⼥が触覚の世界を楽しむ程度は到底われ等の想像を許さぬものがあろうさすれば佐助が献⾝的に春琴に仕え春琴がまた怡々としてその奉仕を求め互に倦むことを知らなかったのも訝しむに⾜りない(『陰翳礼讃』)”

 重要なのは、「⾒ない」ことによって佐助のマゾヒズムが成就されると同時に、彼にとって、美しい春琴の姿は永遠になった。何でも絢爛と照らし、可視化する美意識に拘泥する限り到底理解は及ばぬ美の境地であろう。
 余談だが、『春琴抄』には改⾏も句読点も殆ど存在しない。擬古的な⽂体で、かなり取っつきづらい。薄墨でさらさらと書いたように⽂章が連綿と続く『春琴抄』、或いは盲者による⼀気呵成の語りを全編ひらがなで展開した『盲⼈物語』、秘密の⽇記をカタカナで記した『瘋癲⽼⼈⽇記』は明らかに迂遠な⽂体で書かれている。

“尤も私がこう云うことを書いた趣意は、何等かの⽅⾯、たとえば⽂学藝術等にその損を補う道が残されていはしまいかと思うからである。私は、われ/\が既に失いつゝある陰翳の世界を、せめて⽂学の領域へでも呼び返してみたい。⽂学という殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、⾒え過ぎるものを闇に押し込め、無⽤の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。(『陰翳礼讃』)”

 ここに述べられる陰翳の⽂学は「⾒(え)ないこと」を意図した迂遠な⽂体に現れていると⾔うことはできないだろうか。

 迂遠ゆえに妙味、一層味わい深い。

 

 試しに電燈を消してみることだ――そう述べる⾕崎に倣い、まずは電燈を消してみた。パソコンの液晶が煌々と机を灯し、道路を⾛る⾞のヘッドライトがちらちらとガラス越しに部屋を派手に照らす。部屋の隅では電化製品のスイッチが光る。

 ⾵情や情緒などあったものではない。

 なるほど、⽣活様式のパラダイムシフトは、模倣はできても最早叶わぬ幻想のようだ。

 

参考⽂献

『源⽒物語の現代語訳について』(⾕崎潤⼀郎)

春琴抄』(⾕崎潤⼀郎)

『痴⼈の愛』(⾕崎潤⼀郎)

『陰翳礼讃』(⾕崎潤⼀郎)

『⾕崎潤⼀郎年譜』(夢ムック 2015)

『⾕崎潤⼀郎論 〈型〉と表現』 (佐藤淳⼀)

『東⼤で⽂学を学ぶ ドストエフスキーから⾕崎潤⼀郎へ 』(辻原登)

存在と無』(ジャン=ポール・サルトル)